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2004年12月21日

恋とは変のこと

去年考えてた事を思いかえしてみるというのも日記の使い方でしょう。

恋は感情だから同時に「好き」と思うことは出来る、と思ったりする。でも、綺麗なヒトだから好きになるってことは無くって、やっぱり愛する人とどこか共通項を持ってるひとを好きになるんだろうな。

愛する人以外に好きな人がいてはいけない・・・というのは精神の束縛でしかないけれど、愛する人を傷つけるような恋はしてはならないだろうし、「愛すること」が意思であるならば、その意思によって恋を封じることもあるでしょう。

だからといって、自分の心の中にあふれてくる感情を押し殺してしまっていいのか。

ヨン様ブームで湧くお嬢様方にその回答を見たような気がします。生活と感情は違うものだと・・・(ホンマカイナ)
感情を殺さずに発散する方法を見つけた彼女たちの「若さ」に女性の強さを見ます。

恋とは、自分の感情で自分自身が変わっていくと言うこと。恋は変なのだ。

おそまつ

2004年6月19日

女って大変なのよ

経験的に言わせてもらうと、女の子は何か周囲と異なる要素(例えば髪の色が違う)が明らかになった時点でその共同体からは簡単に異物と認識されます。

暴力をふるったりとまではいかなくて、おてんばと称される程度なら許される。けれども、それ以上を求めちゃったら、つまり、いわゆる「女の子らしいと社会が認識する行動規範」から逸脱した行動を取った時、その子は女の子と認識されなくなります。

かといって・・・

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2004年6月12日

火傷しないていどに

半月くらい前かなぁ、こんな記事を新聞で読んだ。

産経新聞だったかな。曽野綾子さんのコラムだったと思う。曽野さんは機会がある度に、高学歴の学生さんに国際問題などについて聞いてみたって話し。

「利害関係が絡んでこじれた問題をどうやって解決しますか?」っていう質問に、優秀な学生さんは「話し合いで解決します。」って、てらいもなく自信たっぷりに答えるんだって。話し合いで解決できないから戦争にまで発展するし、虐殺もおこる。そんな状態で話し合いが出来るの?それに対して、貴方はその現実にどう向き合うか?っていうそんな感じの話を、川の上流の国と下流の国を例に出して書いていたよ。(うろ覚え・・・)

曽野さんは「あなた方の問題意識は立派だし理論もキチンとしている。けど、人間に対する洞察が甘い。」って言ってた・・・な、うん。(再度言うけどうろ覚え。記事の日付も覚えてないし)

で、思った。

頭もよく計画性も度胸も行動力もある(んだろうな)小学6年生の少女が「殺す」つもりで友達を殺すことは出来ても、「その後」を考えることが出来なかった。

このふたつ、なんだか共通項のように思える。どちらも実存感覚のない世界で生まれ育った子供達の持つ共通項なんじゃないかな。人間に対する洞察力を養うことが出来ない環境が普通であるならば、彼らはみんな普通の子でしょう?

ほら、普通の家庭の普通の子が事件起こしたってあんまり不思議じゃないじゃん。

私たちの生きているこの国は、そーゆー国なんだよな。世界は痛みを伴っている。おぼろげながらそれが分かるから、それを確かめたくてイラクに行くし、友達を殺す。

そんな世界で、私って屈折してま〜〜すなんて自己主張したところで、つまんないかなぁ。

手書きで書け!

今日の産経新聞朝刊の生活面。阿久悠の「書く言う」というコラムを読んで。

コラムは顔の見えないコミュニケーションに内在する「不安」について書き始められます。チャット(と、阿久悠さんは書いているが、正確には掲示板での書き込みも含んで書かれているように思えます)では「息遣いのない言葉」が「相手を傷つけ、打ちのめすことになる」と指摘し、その原因は「限られた字数の中で最大限の感情を盛り込もうとするために、使われる言葉はすべてフォルテになる」ことではないかと指摘している。確かに、生身の人間同士、生の会話であれば抑揚がつき、感情がそこにこもりますね。そして最後にこう締めくくっています。

文字は手書きから入るべし。口汚い言葉も自分の手で感情を込めて書いてみると、如何に醜いことを言おうとしていたかがよくわかる。

掲示板やブログでも極端に短いエントリーを見ることが少なくありませんが、それはもしかすると「フォルテ」の表現だけですませているのではないかと振り返るといいかも知れません。当たり前のことなのだけど、久々にピピ!っと響いた言葉でした。

2004年6月 6日

コミュニケーション不全症候群(2)

前回の続き

普通の子が・・・って驚き方もあるんだけど、私が怖いなぁと思うのは、こーゆーこと。

子供が事件を起こすとね、よくヴァーチャル世界の社会的・日常的な浸透によって子供が狂っていくという指摘がされる。今回はネットなんだけど、それはちょっと違うと思うよ。

20年くらい前かな。藤原新也作品につけられた解説を引用

その藤原新也が獲得した「原感覚」は彼がちょうど一連のアジアの旅に終止符を打った80年代の日本においておそろしく対抗的なものとなった。時代は管理教育が象徴するように、あらゆる分野の管理化が進行し、個人としての人間、さらには90年代のインターネット時代に向けて人間の生死や人間存在そのものを剥奪しつつあったからだ。 (藤原新也ホームページより)

90年当時でそうだったんだから、現在はそれが浸透しきったと考えた方が無難だと思う。そんな風に人間の生死や存在そのもが剥奪されちゃった世界で、まっとうな生死の感覚が養われるって思うのは、無理あるじゃん?と思うのだ。

「この世界のどこにも存在しなくなり、二度と会うことも触れることも話すことも出来なくなる」

という現象が死であると、観念としてではなく実感として理解出来ていれば「会って謝りたい」って言葉は出てこないように思えるしね。

ヒット中の映画「世界の中心で愛を叫ぶという」映画の予告でこんなのがあった。

「何故、大切な人を失うとつらいのですか?」

これと同じ感覚なんじゃないのかな。大切な人だから失って辛いんでしょ。「誰かを大切だと思う」その意味と実感。その重要性を改めて示しているのがこの映画のヒットだと思うけどな。この映画でそれを追体験しているのであれば、それはそれでいーんだけどね。

死が仮想メディア、漫画・アニメ・小説・ゲーム・テレビ・ネットにしか存在してない日本。人が死ぬという状況を日常生活で原体験することができないならば、それが何か知りたいならば、仮想の世界で仮想体験しようとするんじゃないの?そうやってバランスを取ろうとしているんじゃないかなぁ。ゲームやアニメのせいにして、大人達はそれで自分たちの世界が狂っていないと言い切れるのかな?

だからさ、死が傍らに無いのが普通の世界であれば、死の感覚が無いのが普通でしょう?

それなら、普通の子が事件を起こしたって別に不思議でも何でもないじゃん。日常が生死の感覚や人間存在そのものを無くしちゃったなら、そーゆー世界で生まれ育った世代にはもうそれが当たり前のことでしょ?無いんだから、体得できるわけ無いじゃん。無いものは、無い。

そういう風に考えたら、死がリセット感覚でも不思議はない。できればそれを踏まえた上で彼女を裁いて欲しい。

時代背景からも自分からも、誰も逃げることは出来ないのだから。

2004年6月 5日

コミニュケーション不全症候群

ひとつ疑問。

「ネットはほんとのコミュニケーションじゃない」ってテレビで誰か言ってた。じゃ、聞くけどほんとのコミュニケーションってなに?

いつも顔を合わせていること?
仲良くすること?
ケンカすること?
表面的にもめ事を起こさないようにすること?
それを修復すること、しないこと?
仕方なく大人や周囲の言うことを聞くと?


ヤフーの辞書検索すると、こーなる。

コミュニケーション

1  社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。
言語・文字・身振りなどを媒   介として行われる。

2  動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。


つまりは、相手から反応が返ってくること、関係性を持つこと、切ること、維持することをコミュニケーションと言うのではないの?だったら、ネットもほんとのコミュニケーションの一つでしょう。顔を合わせなきゃコミュニケーションじゃないなんて、いや、実に村社会的発想ですね。

ところで、この事件はネットが先にありきなの?

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2004年6月 4日

元気な女性たち

「元気な女性が多くなってきた」 by井上喜一防災担当相


ってあ〜た、ツッコミ所が違うだろう!まぁ発言内容自体、あながち間違いじゃないんだけどね。

「男がムチャをやって好き勝手はあったかも知れないが、女の子は初めてじゃないですか」

この指摘、ある意味あたり。オヤジらしいほこりまみれの感性の持ち主の発言だが、含むところがありすぎ。ちなみに、連続殺人鬼つーもんは、大抵男性です。いや、元気ですね。

ところで、わりと受動的なタナトス衝動で自己表現(リストカット・援交・拒食症etc)することの多い女性が、友人関係に破綻して友達殺すって、けっこう珍しい事例かもね。(小6は立派に女だと考えているので、女性という表現にしてみました)

恋愛沙汰で、例えば一人の男性を奪い合うなんてのは、生臭いけど理解できる。この事件の場合、親密な関係の女の子同士の関係が共同妄想に発展すれば、ピーター・ジャクソン監督の乙女の祈り的世界なんだけどなぁ。ワニた的には、加害者の子も十分少女的感性もってるなと思ったりして。しかも、頭もよく行動力もある。

残念だね。うまく厄介な通過儀礼を通過できていたら、どんな女性になっていたんだろう?不安定な少女期を糧に大人になれたなら、きっと頼れる女性になっていたんじゃないだろうか?

だけども、社会的に影響力の強大な現代日本の政府閣僚大臣様の認識では、いたいけな少女が殺人なんて恐ろしい行為に走ってしまったのも、世に元気な女性が多くなってきた影響ゆえらしい。
美人で可愛くて頭がよくて気が利いて、大人しくてなんでも言うこと聞いて、夜は娼婦のような女性が好みの殿方には、元気な女性は手に負えません。無理です、手を引いて下さい。

つーか、そんな低レベルの政治家、いらんわ・・・・。

・・・・・少女達にサチ多かれ。


2004年3月17日

死後の世界に生きていくこと

希望、存在、死
 onoさんの記事と一児の母さんのコメントを読んで

死後の世界について考えることは宗教的なことではなく、生きていることを考えていくとかならず突き当たる問題です。生命を数直線としてとらえて見ると生と死の境など無いのではないかと思えたりします。それでもなお疑問として残る「死後の世界」についての思いとは何なのでしょうか?

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2004年3月12日

ラジオを聞いて涙ぐむ

平日、仕事の時の昼食は自家製お弁当です。私のリクエストでふりかけは、おみやげでよく見かけるわさびふりかけです。会社の休憩室か、営業に出ているときは車の中なんかで食べたりしています。営業車のなかで食べるときはいつもラジオを聞きながらです。大阪に住んでいたときは802をガンガンにかけてましたが、最近は大阪を懐かしむように1008を聞いています。

今日の放送の中で、なんだか涙ぐんでしまった話がありました。夫の退職の日、何十年も作り続けたお弁当もこれで最後の調理という主婦からの手紙でした。

夫からは甘い卵焼きを「お菓子のようなもの入れて!」などと言われながらも、砂糖入りの卵焼きをポリシーとして入れ続けた事。このおかずか好きかな?これも気に入ってたななどと最後のお弁当のおかずにあれも入れたい、これも入れたいと悩む彼女。最後に「いつもは埋めるのが大変なお弁当箱が今日はこんなに狭いと感じている」と。読み手の方も涙声になっていました。

自慢ではないですが、どんなに苦手なおかずが入っていても、私はご飯粒ひとつ残さず犬がなめたように綺麗に食べます。この話を聞いてさらにそのポリシーが強化されました。お弁当箱に詰まっているのはおかずとご飯だけじゃない。

 学校給食でないと共働きの家庭なんかはお弁当を作れなくて駄目なんでしょうね。でも、思い出します。中学・高校の時ずっと食べていた母のお弁当。きっといろんな想いを一緒に詰めてくれていたのでしょうね。そして、今・職場で、営業車で食べているお弁当。

 きりきり働いて給料あがるようにがんばります(笑)

2004年3月 4日

結婚について考えてみたりする

 いきなり「結婚」というものについて考えてみるのです。

 まず基本的な私の考えとしては「結婚とは制度である」ということですね。つまり「結婚」と「恋愛」は直接関係ないと考えています。恋→愛→結婚→出産・・・という進化論的な流れは幻想でしかありません。幻想でしかないものに実体を見いだそうとするからいろいろな混乱や悩みが生まれると思うのです。

 結婚制度はなぜあるのか、と考えるといろいろな意味はあると思いますが、それは「家系」とそれにまつわる既得権益を守るための道具であったり、女性を家に閉じこめて男性中心の社会に関わらせないための口実であったり、法治国家という大枠の中で誰の子供であるか?という事を戸籍で証明していくためのシステムであったり。。いずれも支配する側から便利な制度。いくら考えても恋愛というものの究極の形が結婚であるという結論には達しないのです。やはり原因は結婚が制度であるという事からでしょう。

 人間が結婚にこだわることをやめないのは、人間に唯一残されたともいえる本能、生殖行動を制度化することによって守ろうとする、一種の防衛行動であるとも思えます。子供を作るということは男女でしかできないこと、そして自分にとって一番ベストな相手をお互いに選びたい、これも本能。社会的な動物である人間はこの「ベスト」を決める際に「家系・血筋」や「宗教」「人種」まで条件に含めて考えてきました。

 しかし、社会の変革とともに「ベスト」の条件も変わってきました。ついには「異性」であることまで条件から外れてしまいそうですね。そうなると元々のこの制度の存在理由が意味をなさないものになってしまいます。なぜそんなことになってしまったのか。やはり恋愛の先にある究極の形が結婚であるという幻想が一人歩きしてしまったのかな。(一夫多妻、一妻多夫ってのも場合によってはありますがそれは結婚制度のルーツからは矛盾しませんね。)

 愛する人と結ばれて家庭を持つことは幸せなことです。でも、それを「結婚」すると定義しないで欲しい。結婚して社会的制度に認められることが幸せを約束すると言うことではないということを理解して欲しい。「結婚したのだから」という前提ではなく「愛があるから」家庭が幸せになってほしいな。

 そして、結婚をためらう女性・男性には結婚なんて制度のことは忘れて、誰かを愛することを追求して欲しい。男女同士でも、同性同士でも結婚なんてくそ食らえだ。愛だけがあればいいんじゃない?結婚は制度であり結婚式は通過儀礼。決してゴールじゃない。

 いろんな複雑な事情で結婚できない人もたくさんいるでしょう。でも、愛することだけはやめないで欲しい。子供を虐待したりDVなど悲しいニュースが続くからでしょうか。とにかくそう思うのです。