前回の続き
普通の子が・・・って驚き方もあるんだけど、私が怖いなぁと思うのは、こーゆーこと。
子供が事件を起こすとね、よくヴァーチャル世界の社会的・日常的な浸透によって子供が狂っていくという指摘がされる。今回はネットなんだけど、それはちょっと違うと思うよ。
20年くらい前かな。藤原新也作品につけられた解説を引用
その藤原新也が獲得した「原感覚」は彼がちょうど一連のアジアの旅に終止符を打った80年代の日本においておそろしく対抗的なものとなった。時代は管理教育が象徴するように、あらゆる分野の管理化が進行し、個人としての人間、さらには90年代のインターネット時代に向けて人間の生死や人間存在そのものを剥奪しつつあったからだ。
(藤原新也ホームページより)
90年当時でそうだったんだから、現在はそれが浸透しきったと考えた方が無難だと思う。そんな風に人間の生死や存在そのもが剥奪されちゃった世界で、まっとうな生死の感覚が養われるって思うのは、無理あるじゃん?と思うのだ。
「この世界のどこにも存在しなくなり、二度と会うことも触れることも話すことも出来なくなる」
という現象が死であると、観念としてではなく実感として理解出来ていれば「会って謝りたい」って言葉は出てこないように思えるしね。
ヒット中の映画「世界の中心で愛を叫ぶという」映画の予告でこんなのがあった。
「何故、大切な人を失うとつらいのですか?」
これと同じ感覚なんじゃないのかな。大切な人だから失って辛いんでしょ。「誰かを大切だと思う」その意味と実感。その重要性を改めて示しているのがこの映画のヒットだと思うけどな。この映画でそれを追体験しているのであれば、それはそれでいーんだけどね。
死が仮想メディア、漫画・アニメ・小説・ゲーム・テレビ・ネットにしか存在してない日本。人が死ぬという状況を日常生活で原体験することができないならば、それが何か知りたいならば、仮想の世界で仮想体験しようとするんじゃないの?そうやってバランスを取ろうとしているんじゃないかなぁ。ゲームやアニメのせいにして、大人達はそれで自分たちの世界が狂っていないと言い切れるのかな?
だからさ、死が傍らに無いのが普通の世界であれば、死の感覚が無いのが普通でしょう?
それなら、普通の子が事件を起こしたって別に不思議でも何でもないじゃん。日常が生死の感覚や人間存在そのものを無くしちゃったなら、そーゆー世界で生まれ育った世代にはもうそれが当たり前のことでしょ?無いんだから、体得できるわけ無いじゃん。無いものは、無い。
そういう風に考えたら、死がリセット感覚でも不思議はない。できればそれを踏まえた上で彼女を裁いて欲しい。
時代背景からも自分からも、誰も逃げることは出来ないのだから。
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