恋とは変のこと

去年考えてた事を思いかえしてみるというのも日記の使い方でしょう。

恋は感情だから同時に「好き」と思うことは出来る、と思ったりする。でも、綺麗なヒトだから好きになるってことは無くって、やっぱり愛する人とどこか共通項を持ってるひとを好きになるんだろうな。

愛する人以外に好きな人がいてはいけない・・・というのは精神の束縛でしかないけれど、愛する人を傷つけるような恋はしてはならないだろうし、「愛すること」が意思であるならば、その意思によって恋を封じることもあるでしょう。

だからといって、自分の心の中にあふれてくる感情を押し殺してしまっていいのか。

ヨン様ブームで湧くお嬢様方にその回答を見たような気がします。生活と感情は違うものだと・・・(ホンマカイナ)
感情を殺さずに発散する方法を見つけた彼女たちの「若さ」に女性の強さを見ます。

恋とは、自分の感情で自分自身が変わっていくと言うこと。恋は変なのだ。

おそまつ

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女って大変なのよ

経験的に言わせてもらうと、女の子は何か周囲と異なる要素(例えば髪の色が違う)が明らかになった時点でその共同体からは簡単に異物と認識されます。

暴力をふるったりとまではいかなくて、おてんばと称される程度なら許される。けれども、それ以上を求めちゃったら、つまり、いわゆる「女の子らしいと社会が認識する行動規範」から逸脱した行動を取った時、その子は女の子と認識されなくなります。

かといって・・・

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火傷しないていどに

半月くらい前かなぁ、こんな記事を新聞で読んだ。

産経新聞だったかな。曽野綾子さんのコラムだったと思う。曽野さんは機会がある度に、高学歴の学生さんに国際問題などについて聞いてみたって話し。

「利害関係が絡んでこじれた問題をどうやって解決しますか?」っていう質問に、優秀な学生さんは「話し合いで解決します。」って、てらいもなく自信たっぷりに答えるんだって。話し合いで解決できないから戦争にまで発展するし、虐殺もおこる。そんな状態で話し合いが出来るの?それに対して、貴方はその現実にどう向き合うか?っていうそんな感じの話を、川の上流の国と下流の国を例に出して書いていたよ。(うろ覚え・・・)

曽野さんは「あなた方の問題意識は立派だし理論もキチンとしている。けど、人間に対する洞察が甘い。」って言ってた・・・な、うん。(再度言うけどうろ覚え。記事の日付も覚えてないし)

で、思った。

頭もよく計画性も度胸も行動力もある(んだろうな)小学6年生の少女が「殺す」つもりで友達を殺すことは出来ても、「その後」を考えることが出来なかった。

このふたつ、なんだか共通項のように思える。どちらも実存感覚のない世界で生まれ育った子供達の持つ共通項なんじゃないかな。人間に対する洞察力を養うことが出来ない環境が普通であるならば、彼らはみんな普通の子でしょう?

ほら、普通の家庭の普通の子が事件起こしたってあんまり不思議じゃないじゃん。

私たちの生きているこの国は、そーゆー国なんだよな。世界は痛みを伴っている。おぼろげながらそれが分かるから、それを確かめたくてイラクに行くし、友達を殺す。

そんな世界で、私って屈折してま〜〜すなんて自己主張したところで、つまんないかなぁ。

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手書きで書け!

今日の産経新聞朝刊の生活面。阿久悠の「書く言う」というコラムを読んで。

コラムは顔の見えないコミュニケーションに内在する「不安」について書き始められます。チャット(と、阿久悠さんは書いているが、正確には掲示板での書き込みも含んで書かれているように思えます)では「息遣いのない言葉」が「相手を傷つけ、打ちのめすことになる」と指摘し、その原因は「限られた字数の中で最大限の感情を盛り込もうとするために、使われる言葉はすべてフォルテになる」ことではないかと指摘している。確かに、生身の人間同士、生の会話であれば抑揚がつき、感情がそこにこもりますね。そして最後にこう締めくくっています。

文字は手書きから入るべし。口汚い言葉も自分の手で感情を込めて書いてみると、如何に醜いことを言おうとしていたかがよくわかる。

掲示板やブログでも極端に短いエントリーを見ることが少なくありませんが、それはもしかすると「フォルテ」の表現だけですませているのではないかと振り返るといいかも知れません。当たり前のことなのだけど、久々にピピ!っと響いた言葉でした。

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コミュニケーション不全症候群(2)

前回の続き

普通の子が・・・って驚き方もあるんだけど、私が怖いなぁと思うのは、こーゆーこと。

子供が事件を起こすとね、よくヴァーチャル世界の社会的・日常的な浸透によって子供が狂っていくという指摘がされる。今回はネットなんだけど、それはちょっと違うと思うよ。

20年くらい前かな。藤原新也作品につけられた解説を引用

その藤原新也が獲得した「原感覚」は彼がちょうど一連のアジアの旅に終止符を打った80年代の日本においておそろしく対抗的なものとなった。時代は管理教育が象徴するように、あらゆる分野の管理化が進行し、個人としての人間、さらには90年代のインターネット時代に向けて人間の生死や人間存在そのものを剥奪しつつあったからだ。 (藤原新也ホームページより)

90年当時でそうだったんだから、現在はそれが浸透しきったと考えた方が無難だと思う。そんな風に人間の生死や存在そのもが剥奪されちゃった世界で、まっとうな生死の感覚が養われるって思うのは、無理あるじゃん?と思うのだ。

「この世界のどこにも存在しなくなり、二度と会うことも触れることも話すことも出来なくなる」

という現象が死であると、観念としてではなく実感として理解出来ていれば「会って謝りたい」って言葉は出てこないように思えるしね。

ヒット中の映画「世界の中心で愛を叫ぶという」映画の予告でこんなのがあった。

「何故、大切な人を失うとつらいのですか?」

これと同じ感覚なんじゃないのかな。大切な人だから失って辛いんでしょ。「誰かを大切だと思う」その意味と実感。その重要性を改めて示しているのがこの映画のヒットだと思うけどな。この映画でそれを追体験しているのであれば、それはそれでいーんだけどね。

死が仮想メディア、漫画・アニメ・小説・ゲーム・テレビ・ネットにしか存在してない日本。人が死ぬという状況を日常生活で原体験することができないならば、それが何か知りたいならば、仮想の世界で仮想体験しようとするんじゃないの?そうやってバランスを取ろうとしているんじゃないかなぁ。ゲームやアニメのせいにして、大人達はそれで自分たちの世界が狂っていないと言い切れるのかな?

だからさ、死が傍らに無いのが普通の世界であれば、死の感覚が無いのが普通でしょう?

それなら、普通の子が事件を起こしたって別に不思議でも何でもないじゃん。日常が生死の感覚や人間存在そのものを無くしちゃったなら、そーゆー世界で生まれ育った世代にはもうそれが当たり前のことでしょ?無いんだから、体得できるわけ無いじゃん。無いものは、無い。

そういう風に考えたら、死がリセット感覚でも不思議はない。できればそれを踏まえた上で彼女を裁いて欲しい。

時代背景からも自分からも、誰も逃げることは出来ないのだから。

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コミニュケーション不全症候群

ひとつ疑問。

「ネットはほんとのコミュニケーションじゃない」ってテレビで誰か言ってた。じゃ、聞くけどほんとのコミュニケーションってなに?

いつも顔を合わせていること?
仲良くすること?
ケンカすること?
表面的にもめ事を起こさないようにすること?
それを修復すること、しないこと?
仕方なく大人や周囲の言うことを聞くと?


ヤフーの辞書検索すると、こーなる。

コミュニケーション

1  社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。
言語・文字・身振りなどを媒   介として行われる。

2  動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。


つまりは、相手から反応が返ってくること、関係性を持つこと、切ること、維持することをコミュニケーションと言うのではないの?だったら、ネットもほんとのコミュニケーションの一つでしょう。顔を合わせなきゃコミュニケーションじゃないなんて、いや、実に村社会的発想ですね。

ところで、この事件はネットが先にありきなの?

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元気な女性たち

「元気な女性が多くなってきた」 by井上喜一防災担当相


ってあ〜た、ツッコミ所が違うだろう!まぁ発言内容自体、あながち間違いじゃないんだけどね。

「男がムチャをやって好き勝手はあったかも知れないが、女の子は初めてじゃないですか」

この指摘、ある意味あたり。オヤジらしいほこりまみれの感性の持ち主の発言だが、含むところがありすぎ。ちなみに、連続殺人鬼つーもんは、大抵男性です。いや、元気ですね。

ところで、わりと受動的なタナトス衝動で自己表現(リストカット・援交・拒食症etc)することの多い女性が、友人関係に破綻して友達殺すって、けっこう珍しい事例かもね。(小6は立派に女だと考えているので、女性という表現にしてみました)

恋愛沙汰で、例えば一人の男性を奪い合うなんてのは、生臭いけど理解できる。この事件の場合、親密な関係の女の子同士の関係が共同妄想に発展すれば、ピーター・ジャクソン監督の乙女の祈り的世界なんだけどなぁ。ワニた的には、加害者の子も十分少女的感性もってるなと思ったりして。しかも、頭もよく行動力もある。

残念だね。うまく厄介な通過儀礼を通過できていたら、どんな女性になっていたんだろう?不安定な少女期を糧に大人になれたなら、きっと頼れる女性になっていたんじゃないだろうか?

だけども、社会的に影響力の強大な現代日本の政府閣僚大臣様の認識では、いたいけな少女が殺人なんて恐ろしい行為に走ってしまったのも、世に元気な女性が多くなってきた影響ゆえらしい。
美人で可愛くて頭がよくて気が利いて、大人しくてなんでも言うこと聞いて、夜は娼婦のような女性が好みの殿方には、元気な女性は手に負えません。無理です、手を引いて下さい。

つーか、そんな低レベルの政治家、いらんわ・・・・。

・・・・・少女達にサチ多かれ。


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死後の世界に生きていくこと

希望、存在、死
 onoさんの記事と一児の母さんのコメントを読んで

死後の世界について考えることは宗教的なことではなく、生きていることを考えていくとかならず突き当たる問題です。生命を数直線としてとらえて見ると生と死の境など無いのではないかと思えたりします。それでもなお疑問として残る「死後の世界」についての思いとは何なのでしょうか?

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ラジオを聞いて涙ぐむ

平日、仕事の時の昼食は自家製お弁当です。私のリクエストでふりかけは、おみやげでよく見かけるわさびふりかけです。会社の休憩室か、営業に出ているときは車の中なんかで食べたりしています。営業車のなかで食べるときはいつもラジオを聞きながらです。大阪に住んでいたときは802をガンガンにかけてましたが、最近は大阪を懐かしむように1008を聞いています。

今日の放送の中で、なんだか涙ぐんでしまった話がありました。夫の退職の日、何十年も作り続けたお弁当もこれで最後の調理という主婦からの手紙でした。

夫からは甘い卵焼きを「お菓子のようなもの入れて!」などと言われながらも、砂糖入りの卵焼きをポリシーとして入れ続けた事。このおかずか好きかな?これも気に入ってたななどと最後のお弁当のおかずにあれも入れたい、これも入れたいと悩む彼女。最後に「いつもは埋めるのが大変なお弁当箱が今日はこんなに狭いと感じている」と。読み手の方も涙声になっていました。

自慢ではないですが、どんなに苦手なおかずが入っていても、私はご飯粒ひとつ残さず犬がなめたように綺麗に食べます。この話を聞いてさらにそのポリシーが強化されました。お弁当箱に詰まっているのはおかずとご飯だけじゃない。

 学校給食でないと共働きの家庭なんかはお弁当を作れなくて駄目なんでしょうね。でも、思い出します。中学・高校の時ずっと食べていた母のお弁当。きっといろんな想いを一緒に詰めてくれていたのでしょうね。そして、今・職場で、営業車で食べているお弁当。

 きりきり働いて給料あがるようにがんばります(笑)

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結婚について考えてみたりする

 いきなり「結婚」というものについて考えてみるのです。

 まず基本的な私の考えとしては「結婚とは制度である」ということですね。つまり「結婚」と「恋愛」は直接関係ないと考えています。恋→愛→結婚→出産・・・という進化論的な流れは幻想でしかありません。幻想でしかないものに実体を見いだそうとするからいろいろな混乱や悩みが生まれると思うのです。

 結婚制度はなぜあるのか、と考えるといろいろな意味はあると思いますが、それは「家系」とそれにまつわる既得権益を守るための道具であったり、女性を家に閉じこめて男性中心の社会に関わらせないための口実であったり、法治国家という大枠の中で誰の子供であるか?という事を戸籍で証明していくためのシステムであったり。。いずれも支配する側から便利な制度。いくら考えても恋愛というものの究極の形が結婚であるという結論には達しないのです。やはり原因は結婚が制度であるという事からでしょう。

 人間が結婚にこだわることをやめないのは、人間に唯一残されたともいえる本能、生殖行動を制度化することによって守ろうとする、一種の防衛行動であるとも思えます。子供を作るということは男女でしかできないこと、そして自分にとって一番ベストな相手をお互いに選びたい、これも本能。社会的な動物である人間はこの「ベスト」を決める際に「家系・血筋」や「宗教」「人種」まで条件に含めて考えてきました。

 しかし、社会の変革とともに「ベスト」の条件も変わってきました。ついには「異性」であることまで条件から外れてしまいそうですね。そうなると元々のこの制度の存在理由が意味をなさないものになってしまいます。なぜそんなことになってしまったのか。やはり恋愛の先にある究極の形が結婚であるという幻想が一人歩きしてしまったのかな。(一夫多妻、一妻多夫ってのも場合によってはありますがそれは結婚制度のルーツからは矛盾しませんね。)

 愛する人と結ばれて家庭を持つことは幸せなことです。でも、それを「結婚」すると定義しないで欲しい。結婚して社会的制度に認められることが幸せを約束すると言うことではないということを理解して欲しい。「結婚したのだから」という前提ではなく「愛があるから」家庭が幸せになってほしいな。

 そして、結婚をためらう女性・男性には結婚なんて制度のことは忘れて、誰かを愛することを追求して欲しい。男女同士でも、同性同士でも結婚なんてくそ食らえだ。愛だけがあればいいんじゃない?結婚は制度であり結婚式は通過儀礼。決してゴールじゃない。

 いろんな複雑な事情で結婚できない人もたくさんいるでしょう。でも、愛することだけはやめないで欲しい。子供を虐待したりDVなど悲しいニュースが続くからでしょうか。とにかくそう思うのです。


 

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生きるということの痛み

鯨問題にきんちゃんさんからコメントやTBを頂いて、そのまた先の記事などを読んで想いを強くしたことがあります。

思えば、今年の新年に書いたエントリーなぜ人を殺してはいけないか?というonoさんの記事にトラパったのがはじまりで,いろいろと考えてきたことでもありました。

 鯨にしても牛にしても個別の問題を追いかけていくと迷宮に入っていくことが、あることを認めることによってすっきりとシンプルになっていきます。それは人間も動物であって、食物連鎖の一部でありその因果律の中に組み込まれているということ。動物を殺して食べることは決して「かわいそう」な事ではなく命の鎖をつないでいく必然なのだと言うこと。

 私たちは、縄張り争いの殺しあいをし、動物の命を奪って自分の生を長らえている。それが生きると言うことのバックボーンにある事を知っていなければなりません。殺しもない、すべての動物が平和に仲良く暮らせる天国に住んでいるわけではないということ。そのことを強く知っていなければならないと思うのです。食物連鎖の業は人間だけのものじゃない。

 生を長らえるため以上の殺生を粛して鎖の輪を意識して生きていくことが、平和への未知ではないかと思うのです。人間が自然をコントロールして「守ってあげる」などというのは実におこがましい。奇跡で人間を救う神など実にうさんくさい。なにか、もしくは誰かを傷つけずには生きていけないからこそ、傷つけた相手のことを思いやる事が、自然の調和なのではないか。

 そんなふうに思いながら、私も毎日大量の電気を使い、今日も肉や魚を食らうのでした(笑)

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無限とゼロという関係

ある人に言われた事があります。

「みんな好き、って事は''誰も好きでない"のと同じだよね。」

その時は「?」が頭の中を飛び交ったのです。そして今になってわかってくることもあります。何が食べたいかと聞かれ「なんでもいい」と答えてしまう事なんかがあって「はっ」としました。それっておなかがすいてるだけで、何かを食べたいという意思じゃないよねって。

 みんな好きっていうのは相手を個人としてしっかり見ていないような気がします。誰でも好きということは誰でもいいと言うこと。個人がどうかなんてことが希薄になっていきます。「あなたが好き」という言葉の寄せ集めは「みんな好き」にはならない。なぜなら「まだ見知らぬ人を好きになどなれないから」。

ゼロという数字は数えてもゼロはゼロ。無限は数えることができないほど巨大な数列。どちらも具体的に数えることができないなら、同じ意味に見えます。

私は無限大の「好き」は持てないから一個ずつの「好き」をしっかり重ねていきたい。誰とでも仲良くなれる人ではなく、たくさんの人と仲良くなれる人になりたいです。

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気持ち、元気ですか?

嵐が吹き荒れて、もうそこまで春が来ていますね。

春のことを考えると、なんだかそわそわするのは気のせいでしょうか?新しいことを始めてみようとか、いままでの事に決着をつけてみようとか、春は決断の季節でもあります。

私の周囲でも会社の勧める早期退職や、自らの意思での転職などなんだかあわただしくなってきました。会社という幼虫がもっと美しい蝶になるためには平気で今まで自分を守っていたさなぎを捨てていく。そんな姿にも見えます。蝶じゃなくて蛾かも知れないけど。とにかく今まで重要なものでも未来に不要であれば切り捨てていく大変な時代に私は生きているのだなと、毎年のように感じる季節。

「気持ち、元気ですか?」

これは、自分に対しての問いかけ。いつも具体的で現実的なことばかり考えて仕事をしていると、心底疲れてしまいます。もっと楽しく生きなきゃ、もっと明るく過ごさなきゃ。現実と遊離することはできないけど、せめて元気な気持ちで春を迎えたいですね。


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主人公

気づいて欲しかった。小さな物語に触発されて

人は一人では生きてゆけない。そんな当たり前のことがいつも人を悩ませるんですよね。

自分の世界を小さくしてしまっている自分に気づかない人。自分以外の人と自分との関係が「ない」と思ってしまっている人。そんな人が多いんじゃないかな。会社と家の単純な往復。囲い込まれたムラ(会社とか近所とか学校とか・・・)のなかに限定された人間関係。

誰もが「他人に興味が持てない」と自分の勇気のなさを正当化してみたりします。きっと誰かがいつか自分を見つけてくれると、ファンタジーの世界で迷ったふりをしてみます。でも、本当は気付いてるはずなんですよね。「自分の人生の中では、誰もが皆、主人公」だと。痛みもあるリアルな世界に生きているんだと。

人とのつながりって何でしょう。誰かとコミュニケートすることかな。電話もない昔は常に会っていられる人以外とは手紙での連絡しかありませんでした。だから相手とのつながりは「自分の中の想い」に大きくゆだねられていた。だから出会いを大事にしたし、深く慈しむことができた。

今はどうでしょう?コミュニケーションは「即時性」を求められ、距離はテクノロジーによって埋められてしまいました。「今」だけが重視され、他人を慈しむ時間すらないほど追いつめられていく。人とつながることに疲れてしまっても、自分の想いの中に誰もいなくなってしまった。

それでも、誰かの心の扉をノックし続けることは大事なことですよね。こうしてblogに自分の何かを書き付けていくことで、いつの間にか誰かとつながっていく。即時性を必要としないコミュニケーションの形。迷っている自分こそ、自分そのものだという確信。

あたりまえに生きる事の難しさを痛感します。あたりまえという曖昧な生き方に迷うんです。でもいつか誰かを気付いてあげられる自分に気付くはずです。フラクタル、そう私たちは大きな森に生える一本の木。隣り合った枝をふれあいながら生きていくんですよね。

なんて、ふと考えちゃいました。

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愛は与えるもの?

「愛とは与えるもの。与える喜びが愛なのだ」という月並みな事を酔った勢いで語り込まれた事があります。まあ酔っぱらい相手なのでずっと聞いてたわけですが。

 冷静に考えると「与えることができない人は愛せないのか?」って思っちゃうんです。表現だけの問題なのだとは思うのですが「与える」ってのはなんか高い位置から相手を見ているように思いますね。偽善っぽい臭いがする。悪意を持って与える人を感覚的に知っているからでしょうか?

 与えるって言葉の持つキリスト教的な響きが私の拒否感を生むのでしょうか?

愛とは、愛するという意思の事なんだって、今は思っています。

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生命の数直線

人生が数直線だったらどうだろうか?

ゼロから始まり死の瞬間で終わる、そんな数直線でしょうか?死の瞬間が72才3ヶ月2日20時間3分34秒だと仮定するとその瞬間は「死」に属するのでしょうか?それとも「生」に属するのでしょうか?それとも両方に属するのでしょうか。

生命は死に向かって生きていくのでしょうか?それとも無限に生きようとしてたどり着けないのでしょうか?ひどく,苦しい問いです。「生きる事とはどういうことか?」を考える以前に「生きている感覚」がない存在が「死ぬことの意味」を考える?


どうしてそんなに急ぐんだろう。
生きていることの意味は,生きていることで説明すべきだ

生命はフラクタルな存在ですね。同じものを生み出し「輪廻転生」したいと子孫を生み出し続けるのだけれども、それは「似たもの:相似形」でしかありません。いつか同じものにたどり着けるのだろうと似たものを生み出し続けて行くことで、無限の種を作り出していく。決して生命は数直線上にある「期間」ではないのです。

生きていない人ほど死に対して恐怖を覚える。それは生を感じるまでの時間が限られてしまうと思うからかな。反対に、死に対して怒りを感じる人は自分の「生」に気づいた人かも知れません。もっと生きたいと思うだろうから。

私は、自分が死んでいく時、この世界が懐かしいと思いながら逝きたい。そんなふうに思っています。

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ほんたうのしあわせ

なぜ人を殺してはいけないかを読んでいろんな事を思いおこしました。

 藤原新也がウェブサイトに2001.11.6にアップしたエッセイ(いまは単行本「空から恥が降る」に収録されサイトからは消えている)「阿修羅世界のモラル」に書かれていたエピソード。印パ戦争の折に難民の主婦を強姦したという疑いをかけられたヒンドゥ教徒が、モスリムの熱狂した群衆に惨殺(引き回しのうえ八つ裂き・・・)されようとしていた。そのときモスリムの将校が群衆を制しながらそのヒンドゥ教徒の頭を38口径の銃で打ち抜いた、というもの。

目前に残虐きわまりない拷問を受けて殺されようとしている人がいるときどうするのか?

1、彼を38口径で安楽死させること(人を殺す=罪を犯す)
2,「人を殺してはいけない」というモラルを守るために放置しておく、
3,身代わりとして自分の命を投げ出す。

という3つの選択肢を指し示した後コラムの最後をこう締めくくっています。

<「戦争や人殺しをしてはいけない」というのは、すぐれて宗教的発言である。そしてその言葉が真に生きるのは君が修羅場において宗教者としての立ち振る舞いができるかどうかにかかるだろう。
 私個人は38口径でヒンドゥ教徒の頭を打ち抜くことはできると思う。
 しかし第三の選択をとる自信はない。>

要約が誤解を生むといけないので、上記の本を読んでもらえるとありがたいのですが、とにかくこの問題についてひとつの考えを示していると思います。上のコラムの例示は非常に偏ったケースだと言われるかも知れませんが、おそらく戦場では希有な例では無いのではないでしょうか。

 もうひとつ、宮沢賢治の寓話のいくつか。ひとにとって「ほんたうのしあわせ」は何なのだろうってこと。それは「その生を全うすること」かなと思ったりもします。賢治自身は藤原氏のしめした3番目の選択を迷い無くとるだろうと思えますが、それはまさに宗教的な発想かも知れません。以前にも少し書きましたが、直接殺してはいなくても間接的に人を殺していて、自分が生きることは多くの死の上に有るかも知れないという感覚を持てるかどうか?(自分が殺してはいなくても社会が殺しているかも知れない。痛みのある世界に生きていると言うこと)

 人を殺すということは「他人の生を全うする権利を奪うことである」としたならば「自分が生きているという肉体感覚」がない少年には「なぜかわからない」という答えが妥当かも知れません。「なぜ人は生きていかなければならないのか?」という問題を同時に解かないとだめかも知れませんね。

 生きていくこと、生きると言うことの「ほんたうのしあわせ」を、肉体感覚、重みを持って考えていけば、「殺してはいけない」の意味がおぼろに見えるかも知れないなぁ、なんて思いました。

結局結論は出せないのですけどね。


 

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感情と意志と不倫

恋愛と愛と恋のこと(3)なわけです。

恋ってのは「感情」って書いたんだけど、それは「すき」「きらい」という様な感情だけでなく「かわいい」とか「きれい」という感情にも関連しているかも知れないって思うわけで、それは辞書的な意味にもそう書かれていますね。

 感情だから何歳になっても、たとえば結婚したって「恋」を感じることは人間として普通のことだと思います。そういう感情に男女間の差も年齢の差も無いんじゃないかな。きっと「恋」って感情が無くなることはないんだと思う。「恋心無限の法則」かね。

 じゃあ愛は?って事になるとそれは当然「恋」という感情が引き起こす「意志」なんだよね。「恋」という段階を経なくても「愛」は存在できるから、双方の間には絶対的な関係はない。「愛そう!」という強い意志だけが、結局それを継続するエネルギーになるのであるわけさ。恋は愛という意志を生み出すきっかけにはなっても、揺らいでしまう感情に愛を継続するだけの力はない。揺らぎが有ればそれが愛という意志の減衰につながってしまう。意志が大事なんだ。結婚したから自動的に愛されると思ってる人、愛は無限だと思っている理想主義的なおっさん(とは限らないが)は結局愛が減衰していく・・・。
 
 「不倫が許せるか許せないか?」って議論は、もともとそのお題目の立て方がおかしいとおもうよ。人を愛すること、人に恋する気持ちはいつだって存在するんだから。じゃあどんな題を立てるか。そうだなぁたりぽんなら「夫婦間における倫とは何か」だろうね。まず倫に反することを議論するには「倫」とはなにか?という基準問題を話し合うべきでしょう。「どこまでなら不倫じゃないのか?」なんて下世話なワイドショー的な議論ではなく、きっちりと「倫」をたて、それを守れないということはどういう事なのかを明確にしていかなければね。そうしないと不幸な思いこみで傷つく人が増えるだけだよね。

 恋する気持ちを封じられた人間は活きが悪くなるし、愛する意志だって減衰するよ。不倫を奨励する訳じゃないよ。お互いの愛の形を「世間体」とか「世論調査的倫理観」からではなくって、お互いにお互いのことを「どのように愛していくのか?」という「意志」ついて、この年末、こたつでミカンでも剥きながら、その愛のきっかけとなった「恋」の思い出とともに語り合ってはいかがでしょうか?

 

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恋愛と愛と恋のこと(2)

続きはまた明日、なんて書いて寝たから書かなくっちゃね〜。まずはっきりさせておくことは言葉の定義。@NIFTY辞書でまずはひいてみる

「恋」
(1)異性に強く惹(ひ)かれ、会いたい、ひとりじめにしたい、一緒になりたいと思う気持ち。
(2)古くは、異性に限らず、植物・土地・古都・季節・過去の時など、目の前にない対象を慕う心にいう。

「愛」
(1)対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ。
(ア)相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。
(イ)異性に対して抱く思慕の情。恋。
(ウ)何事にもまして、大切にしたいと思う気持ち。
(2)キリスト教で、神が人類を限りなく深くいつくしむこと。
(3)〔仏〕 人や物にとらわれ、執着すること。むさぼり求めること。渇愛。
(4)他人に好ましい印象を与える容貌や振る舞い。あいそ。あいきょう。

うーん、改めてひいてみるとその境界線は微妙〜。「愛」(1)(イ)に「恋」とあるところを見ると恋は愛の一部を表現しているらしい。その双方に「慕う」という意味があるようなのでそれも調べてみる。

「慕う」(動ワ五[ハ四])
(1)恋しく思う。心がひかれなつかしく思う。思慕する。恋慕する。
(2)離れがたく思ってあとを追う。
(3)学問・人徳などを尊敬して、それにならおうとする。
(4)逃げる相手を追う。

ふーむ。証拠が多すぎて解決しない事件みたいになってきました・・・(^_^;)

さだまさし「恋愛症候群」によると「奪うのが恋」「与えるのが愛」と歌われていますが、これもある側面をうまくいいあらわしてますね。

なんか疲れてきたぞ。とにかく恋愛の問題はまず人間と人間の間のことに絞ってまずは考えていこうかな。とりあえず今日はこの辺で・・・。続きはそのうちということで。


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恋愛と恋と愛のコト

寝床についてから標題のようなコトを考え出した。眠れなくなりそうだから携帯から少し思い付きを投げておこうって事です。
不倫についての独り言とかを読んでると、「その恋に踏み出さないで」とか「自分の愛に忠実に」とかいう言葉を目にするんですよね。でも、その前に愛とか恋とかいう曖昧な言葉をきちんと定義して進めないと、ただの乙女チックな感情吐露に終わりそうでもったいないなぁって思うんです。 たりぃ〜的に考えると「恋」は感情で「愛」は意志かなって。だから恋愛は意志と感情が合体して激しい現象になるんだろうかね。さすがに携帯からこれ以上書くのは疲れるから続きはまた明日。おやすみなさい

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