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2004年3月17日

死後の世界に生きていくこと

希望、存在、死
 onoさんの記事と一児の母さんのコメントを読んで

死後の世界について考えることは宗教的なことではなく、生きていることを考えていくとかならず突き当たる問題です。生命を数直線としてとらえて見ると生と死の境など無いのではないかと思えたりします。それでもなお疑問として残る「死後の世界」についての思いとは何なのでしょうか?

改めて考えてみると「死後の世界」には二つありますね。

それは「死んでしまったひとが行ってしまう世界」と「死んでしまったひとを取り巻いていた世界」です。そして、お互いにそれぞれからは認識できない世界。つまりこの二つの世界は「関係のない」世界であるともいえます。

前者の世界は我々からは認識できない世界ですから、どんなに深く考えてもそれは想像の世界に過ぎません。だからここではこれについては考えません。

問題は後者ですね。我々も誰かの死後の世界に生きているわけです。誰かが常に死んでいく世界に生きているのです。誰もが知っているのですよ、自分が死んでもこの世が続いていくことを。だから死にたくない。もっとこの世に居たいのだと思うのでしょう。そして、その代替えとして死後の自分が存在する世界を想像するのですね。

コメントの中で一児の母さんは「食物連鎖の頂点にいる人間同士」と表現されていましたが、私は食物連鎖に頂点はないと考えています(生きるということの痛み参照)。人間は食物連鎖の中にとどまるために「きちんと死んでいかなければならない」と思うのです。きちんと死ぬために、きちんと生きて行かなければならない。(そういう意味では人間の死体は自然に帰されるのが正しい形なのでしょうね。火葬にしたりミイラにしたりするのは、死後の世界も生きたい=食物連鎖からの離脱を意味するのでしょうか?)

ぐるぐる巡る生命の環の中に生きているのだと言うことを、子供にどうやって教えればいいのでしょうかね?多くの動物や植物とともに暮らす以外に私にはその方法がないように思われて仕方ありません。


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コメント

はじめまして。onoさんのところから来ました!。

生命を数直線・生きるということの痛みも含めて読ませていただきました。いや~感服いたしました!!(自分の表現の貧しさに凹・・・)

死後の世界についてそうですね。2つありますね。
私は今までこの2つの世界をごっちゃにして考えていたように思えます。今スッキリしました。
生命は数直線ではなく輪として本当に受け止められたらこの世に対して未練なく死を迎えられるのでしょうか。

あと食物連鎖の頂点にいる人間という表現ですが、初めは表現が極端すぎたな~と思ってたのですが自分の書いたコメントを読み返して明らかに自分(人間)が頂点に君臨してますね・・・。見下した位置から生死について語ってる。反省です。気付かせて下さってありがとうございます。

本当に子供たちにどう伝えるべきか難しい問題です。ビルやアスファルトに囲まれ、情報に溢れる中で・・・。
幼い時期にはどう伝えたらいいのか考えます。

※アド架空です。
 ブログっていいですね(昨日初めて知りました^^);

ようこそ一児の母さん(^_^)
コメントありがとうございます。

二つの死後の世界ってのは、言葉の遊びでもあるんですがこの問題の一面をあらわしているように思います。

達観した視点から子供に教える必要はないのでしょうね。一緒になって考えることが大事かも知れません。理屈でなく痛みや涙や喜びで体に刻むのが生きることを実感する方法なんじゃないかなって思ってます。

まだまだ考えることが沢山ですね。

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