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2004年1月10日

ほんたうのしあわせ

なぜ人を殺してはいけないかを読んでいろんな事を思いおこしました。

 藤原新也がウェブサイトに2001.11.6にアップしたエッセイ(いまは単行本「空から恥が降る」に収録されサイトからは消えている)「阿修羅世界のモラル」に書かれていたエピソード。印パ戦争の折に難民の主婦を強姦したという疑いをかけられたヒンドゥ教徒が、モスリムの熱狂した群衆に惨殺(引き回しのうえ八つ裂き・・・)されようとしていた。そのときモスリムの将校が群衆を制しながらそのヒンドゥ教徒の頭を38口径の銃で打ち抜いた、というもの。

目前に残虐きわまりない拷問を受けて殺されようとしている人がいるときどうするのか?

1、彼を38口径で安楽死させること(人を殺す=罪を犯す)
2,「人を殺してはいけない」というモラルを守るために放置しておく、
3,身代わりとして自分の命を投げ出す。

という3つの選択肢を指し示した後コラムの最後をこう締めくくっています。

<「戦争や人殺しをしてはいけない」というのは、すぐれて宗教的発言である。そしてその言葉が真に生きるのは君が修羅場において宗教者としての立ち振る舞いができるかどうかにかかるだろう。
 私個人は38口径でヒンドゥ教徒の頭を打ち抜くことはできると思う。
 しかし第三の選択をとる自信はない。>

要約が誤解を生むといけないので、上記の本を読んでもらえるとありがたいのですが、とにかくこの問題についてひとつの考えを示していると思います。上のコラムの例示は非常に偏ったケースだと言われるかも知れませんが、おそらく戦場では希有な例では無いのではないでしょうか。

 もうひとつ、宮沢賢治の寓話のいくつか。ひとにとって「ほんたうのしあわせ」は何なのだろうってこと。それは「その生を全うすること」かなと思ったりもします。賢治自身は藤原氏のしめした3番目の選択を迷い無くとるだろうと思えますが、それはまさに宗教的な発想かも知れません。以前にも少し書きましたが、直接殺してはいなくても間接的に人を殺していて、自分が生きることは多くの死の上に有るかも知れないという感覚を持てるかどうか?(自分が殺してはいなくても社会が殺しているかも知れない。痛みのある世界に生きていると言うこと)

 人を殺すということは「他人の生を全うする権利を奪うことである」としたならば「自分が生きているという肉体感覚」がない少年には「なぜかわからない」という答えが妥当かも知れません。「なぜ人は生きていかなければならないのか?」という問題を同時に解かないとだめかも知れませんね。

 生きていくこと、生きると言うことの「ほんたうのしあわせ」を、肉体感覚、重みを持って考えていけば、「殺してはいけない」の意味がおぼろに見えるかも知れないなぁ、なんて思いました。

結局結論は出せないのですけどね。


 

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コメント

トラックバック、ありがとうございました。
書かれた記事の3つの問は、キツイ問ですねぇ。
自分の子どもならどうか、恋人ならどうか と個別に考えてしまいます。そう考えるということ事態、既に「誰か」の場合は、自分を守るという思考を前提にしているわけでして・・。

最後の7行好きでした。
ボクが書いたものよりも文章が洗練されていて悔しかったです。

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