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2004年1月 9日

高句麗の歴史は誰のもの?

「高句麗時代の遺物搬出の朝鮮族死刑に」という記事を読んでいたたまれない気持ちでいます。この問題についての詳細な議論はそのうちゆっくりとしたいです。しかし、なんでこんな事になるんだ?という事は今叫んでおかないとさめてしまいそうなので書き込むことにしました。

 1、「民族」という近代に発生した「認識」を過去に適応していく事に関しての問題

 高句麗が「中華文化圏」のいち周辺国家であった事は確かだが、その歴史を「中国の地方史」とすることには反対です。歴史というのはフラクタルな構造を持つのではないだろうか?と思うので、「部分と全体」という意味で高句麗の歴史をとらえることはできても「中心と周辺」というとらえ方は疑問符だらけです。「支配の道具」として歴史を利用する危険性を、それこそ歴史に学ぶべきです。そもそも、中国だってずっと漢民族の国家ではなかったわけです。中国を支配してきたのは皇帝であって民族ではない。そもそも近代の領域国家という西欧的概念を中華的(もしくはヌガラ的)国家に当てはめるのは非常に無理がある。なんか支離滅裂になってしまったけど、要は「民族」が「歴史」を担っていたという「概念」は捨て去るべきだと主張します。

 2、「国家」に帰属する「歴史観」はやだ

 歴史を知れば知るほど、国境の意味がわかってくる。その歴史的な意味のなさに。国境がまるで地表に引かれた線のように思っていないかって。歴史というものは部分と全体が影響しあって構成されてきたもので「国家」という立場から見た歴史も、全体の中の部分に過ぎないという認識を強く持っていなければなりません。まるで今教わっている「歴史」が物理の法則のように唯一の原理であるかのように思いこむのは危険です。歴史はエピソードをつづった物語に過ぎない。そこから意味性を導き出すことが重要なのです。現在のための歴史ではなく、歴史あっての現在なのだと早く気づいてほしい。国家が歴史を利用するとき、そこには悪意が見え隠れします。「歴史」が政治において一番効果的に利用できるのは外交ではなく国内の統治に対してです。そういう意味で歴史を声高に叫ぶ国家の内情を考えることもできますね。外交に使えば一番大きな火種のひとつになります(もう一つは宗教)

 3、歴史を持たない国家の強さ

 つまり、アメリカの事です。歴史を下敷きとする既得権益としての国家に彼らは興味がない。現実の姿、未来の姿を追い求めるところにアメリカの強さを感じます。もちろんわがままや横柄さも感じます。しかし、歴史を持たない事による前向きなエネルギーの使い方を、もう少し考えてもいいかも知れません。。国家から歴史を切り離してそれぞれに考えられないか。日本の教育は「国家」というものの概念を「歴史」の授業でだけ教えていないか?って考えるとき「今の日本国家」を歴史じゃなく現実で学ぶことをもっと進めてはどうかな?なんて思ったりします。

 1・2・3などと生意気に箇条書きにしたわけですが、中国は歴史を振りかざして周辺国にいろんな事をいってきますが、現実の今の姿をしっかり実体化させてそれに対抗しなければなりません。でもそれは「民族」とか「国家」といったイデオロギーでなく。答えはまだ持ってませんがじっくり考えていきたいと思っています。

 朝鮮民族の起源を考える(極東ブログ)はぜひ参照ください。共感する部分が多いです。

 

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コメント

朝鮮は千年もの間、中国の属国だったんですよ。
韓国人には耐え難い事実でしょうが。

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