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2003年12月30日

歴史の自己相似性に関する妄想

時間のフラクタルもありえる。って面白いなって思いました。「一部分が全体を表している」っていうことが歴史にも当てはまるかなと。

いま教科書などで教わっている歴史の大半は「国の歴史」そしてすんでいる地域の歴史。どちらにしても「クニ」の歴史といってもいいのかな。世界>国家>クニ(州とか県とか)>ムラ>イエ>個人というような構造が自己相似性を持ってはいないか?って妄想してみたわけです。ん?市民が銃を持って治安の悪い国が戦争を起こしている?そこの国民は凶暴かって?そんなことはマイケルムーアに聞いてくれ(笑)まあ大筋、市民が銃を持ってる国が戦争してるのに間違いはないだろう。(ただ気をつけなければならないのは銃(武器)が無くたって人間は殺せるってこと。・・・これは脱線。また別の機会にでも)

 中国を中心とする「中華文化圏」を例にとれば、中心部の文化が伝播して周辺に行くほど薄いって考えがちだけど、実は遠方に行くに従って文化は「要素化」されよりピュアな形で残されているように思ったりする。これって実は中華圏全体でフラクタルな構造になってるのかな。日本の寿命って事なんかを考えてみると、日本が世界の一部であると同時に、全体を表す一部であることに想いを巡らすのも必要かな。

 自分自身が世界の似姿であることをほんの少しでも考えれば、いい世界にしよう=いい人間でいようと思うんじゃないかな。世界が自分とはかけ離れた場所にあると思いがちだからこそ、大きな木の姿を見つめて自分がひとつの葉っぱであることに、もう少し自信を持っていいと思うんです。

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